先週あたりから急に出ずっぱりの日々が続き、昨日ようやっと一段落ついたのだけれども、気が触れて立ってしまって寝つけなくなってしまった。昼夜逆転のサイクルになってしまっていることでもあるし、起きていることにした。これで夜に眠れれば言うことないのだが、経験上この方法だと二徹などになって、かえって最悪の方へと向かいかねないことは承知の上で。横になって本など読んでしまうと、中途半端な時間に眠ってしまうに決まってるのだが、それでは何をしようかと思案していると、二冊のメモ帳が目に入った。「120×76mm」で「5mm ruled / 20lines」という規格の緑がかった青の表紙のメモ帳である。



●話者は仏語を用い、私は仏語を解さない。通訳者は初仕事である。したがって話者がこのように、この内容を話していたのかは定かではない。光と音の関係と同じく、口話に筆記が追いつくことはなかった――速記などの特殊技能の持ち合わせはない――ので、中途で断ち切られていたり、筆記者の記憶に頼った推測によって書かれている箇所もある。注意されたし。
●ページを出来る限り忠実に再現しようと試みた。
強調削除挿入引用は左記の通りに、打ち込み時に加えられた明らかな誤字・脱字ほかの補足は〔  〕で括ることで処理している。但しその処理が厳密に行われているわけでもない。
●とにかく冗長であり、前後での重複・矛盾・飛躍、文章の体を成してないことも多々あるので、的確な要約を求める向きは然るべきサイトに赴くべし。
●上記の通り私的・稚拙な記録なので、話者を推測するのはかまわないが、これのみを以てその人物の評価を下さないこと。
●以上、言わずもがなのことではあるが、いちおう明記しておいた。



それではお読み下さい。
楽しんでいただけたら嬉しいです。
お役に立てたなら幸いです。
もし不快・迷惑を感じましたならばお詫び申し上げます。



メモ帳1冊目

1(・『骨』について
 (・ドキュメンタリーとフィクション
2(・質疑応答
3(・編集について
――――――――――――――――――――――――――
〈愛〉と〈距離〉
映画によって(何かを)知ることが出来る。
ミゾグチ・オヅ・ナルセを知り、愛した。
だがそれらの作家と距離をとってきた。
彼らの作品で見られないものもある。
三人の作家はヴィジョンや集中して consentration 見せることを
した作家。
オヅとミゾグチのなかの日本的なものの
クリシェについて話
理解する=感じる
日本では道ばたでにん婦〔妊婦〕を見ること
がない。オヅはそれについてひとつの
答えを出しているのでは。
オヅのような作家が何かを隠す
ということは、何かを断言するためだろう。

〔ページ変わり〕

日本の真のドキュメンタリ作家のオヅ
オヅの映画より前に知っていた。
オヅは日記に映画は「知っているもの」のコピーであると。
書いている。
映画にとって有効なものは
芸術的・美学的なことではなく、
「何かうまくいかないことを感じる」
ことである。
だからこそ、ドキュとフィクの違いはない。
映画の最初のイメージは工場と列車
だった。
写真はある種の現実・証拠となる
最初の写真はパリ・コミューンで死んだ
人の死体だった。
誰かによって撮られた映画の最初の
イメージはろうごく〔牢獄〕から解放される出る人人で
写真は変革を求める人々の死体。
フィクであれドキュであれ、以上の
様な歴史的データは映画のベースである。

〔ページ変わり〕

それは「愛」ではなく「不安」であり
それを留めようとした人々だからです。
その身ぶりや欲望は「何か強いもの
とそれを忘れないため」にあるのだ。

最初の
問題は二番目に撮られた映画
またもや工場である。
リュミエールはそこで「演出」
を加えた。
最初の「愛の行為=批評」を
二回目にはやめてしまった。
労働者たちに演出=指示を
出し始めた。(ここでな〔く〕ここでこうしろ)
フィクのいらぬ
工場のパトロンは労働者たち
に規則を与えている

〔ページ変わり〕

明らかなことは、映画における
最初のシナリオは王であり規則であ
りプロデュースだった。

こうしたシナリオ(〈コメディ〉の)
→一枚の紙
 〜を演じるのにいくらかかるのか

同時期にまたその後もつづいた
シナリオのない映画
→エロティックな映画

始めて「シナリオ有りの「ラブストーリやコメディ」フィクション」
と同時に現れた〔「〕シナリオ無しの
フィクション」=ドキュメンタリィ

世紀末〜世紀初めにとられたフィクションのシナリオ
は予算
シナリオなしのフィクションは「愛」の物語
エロティックなものだった。

〔ページ変わり〕

一方で「愛」をシナ有フィクで見せる
作家たちと、「愛の行為」を
シナ無フィクで見せる作家たち。

どちらにしろ対象となっていたのは
「愛」であった。

ただし、フィクの中で産業的側面
はここでは考慮していない。
ただ、そのようでない映画が
この時誕生していたのだ。

ドキュ(フィク)は家で撮られていた。
「愛の行為」を撮るために。
これはいまでも続いていると思う。

当時、この2つに橋わたしをしようと
した人々もいた。フィクの中でドキュ、
ドキュの中でフィク(金)を考えた。

〔ページ変わり〕

フィクとドキュと統合した、
プライヴェートな側面と
全てを見せる側面を統合した
グリフィス。
それは「セックスの恐怖=戦争」を表現する
ことに成功したのだ。
『国民〔国民の創生〕』『イントレ〔イントレランス〕』で最も強いのは
パッションと恐怖であり、
それは人間における「愛」である。

グリフィスは映画は全ての人が
わかるという側面と見せては
いけないという側面を見せるという
ことを知っていた。
彼は映画は不在の芸術
何かを見せないことで
何かが強くなる。

〔ページ変わり〕

『骨』で見せていない(不在)
 ・ドラッグ
 ・観客
それは
〔溝口の〕『赤線地帯』も同じだと思う。
この映画の中で、ある少女は観客に
対して扉を閉ざす、映画に入れない。
観客がその映画の中に入らない方
〔が〕いい、ということかもしれない。
ミゾグチが日本に資本に(売春)に対して、
ある種の苦しみ、いやせな〔い〕ほどの
痛みを描こうとした。
扉を閉ざすという恐怖は

『骨』もまた観客に対して閉じている
ラスト・シーンを撮っていた時、ミゾが
同じ事を〔しているのを〕知っていなかった。
その後、ミゾがある種のことが
出来なかったとわかった。

〔ページ変わり〕

映画をつくりおえた後でも『骨』が
フィクだかドキュだかわからないが、
ラストでドアを閉めるということが、
何かを表しているのではないかと思う。

チャップリンやメロドラマ、
赤ン坊、パン、何も食べる
もののない子供、売春婦を
知っていると思うが、
閉ざされたドアと開かれている
『骨』はドキュといってもいいかも
しれないが、そこで貧しい地域
や人人は、最後のドアにつながっている。

フィクは常にドアが開いてるか
閉じてるかが問題である。
そのドアか〔ドアが〕そこから抜けでることが
出来るのか、出来ないのか

〔ページ変わり〕

今日、映画の状況は、観客が
快ちよかったりするかもしれないが、
自分自身をそこで見い出すことしか
出来ない。
フィクとはまさにそのためにある。
それは観客はフィクに自分を
投影すること。
観客は映画を見ているのか?
見たいものを投影しているのだ。
観客は映画の中で彼が抵抗し
ているかどうか見る。
映画を現実的に見る〔こ〕とは難しい。
えてして自分自身を投影してそれを見て
しまう。
映画を本当に見ることは困難だ。

〔ページ変わり〕

真の映画、または映画を見ること
は、スクリーンの泣く男と共に泣く
ことではない。
それがわからなければ、映画を
見ることは出来ない。

つまり、それはドアが閉ざされてる
映画と、ドアが開けられた映画
がある。このドアは必要なものだ。
両方やったオヅやミゾがいる。

それドアは誰かの私有物ではなく
開ける開けないは私たちが決める。

その決定をすることが重要だ。

ラストサムライ』はジャンク・フードと同じ
で、不快になるとわかっていながら
見に行ってしまう映画なのだ。

〔ページ変わり〕

ラストサムライ』は「開かれたドア」
の映画。マクドナルドのドアのように。

『晩春』『お茶漬の味』は完全にドア
を閉さした〔閉ざした〕映画ではないが、

『骨』はあなた方が苦しむというのを
表しています。完全にドア〔を〕閉じてはいない
けれども。

ミゾにオヅは好きかと聞いたら、
もちろん。彼は私よりミステリアスなもの
を持っているから

これはドアがあるということを
わかっている、最大の賛辞である。
ミゾが夜の霧によりを描くことで
ミステリアスなものを表現するミゾが
よりミステリアスだ」と言ったことが
すばらしい。

〔ページ変わり〕

映画はフィクであれドキュであれ「きょり〔距離〕」
が大切。それは「ドア」を作ること。
それ〔を〕開けるか開けないかを観客が
決定できるようにする作家として
オヅやミゾがいる。
ミゾ・オヅ・グリフィス・チャップリン
は最も偉大なドキュメンタリストである
ドキュとは「道」ということ
彼らは何かを見せるより隠す作家
ドアを閉ざす作家。
あなたたちが、もしかしたらドアを
開けることが出来るかもしれない。
彼らの映画のドアを開けることは
難しく危険でもある。
時折、全てを見せることが
必要な時もあるかもしれない
が、その時われわれは何も見て
いないかもしれない。

〔ページ変わり〕

見るためにはわれわれは
スクリーンの「外」にいなければ
ならない。
感情移入するとき、それは
マクドナルドに入るのと同じことを
しているのだ。
(メロドラマ的な)感情に訪れる危機は、つねに
強いものだが、同時に誤ちで
あることもある。

私は15世紀や16世紀の日本に存在する
ことに驚かされる、テレビの中の
テロよりも。
ミゾや日本の作家たちの一言が
人々の苦しみや痛みを、テレビの
ドキュよりわれわれにもたらすの
です。

〔ページ変わり〕

ドキュだけをやったフィクだけをやった
という作家はいないと思う。
私自身もドキュだかフィクだかわからない
大切なのは人人の「生」だ。

私がドアを閉めるほど
人々が見たいと思うものを
思うことを、はばむのです。

ドアを閉めれば閉めるほど
観客を反対の方向に位置
づけているのかもしれない。
それは不快に思われている
かもしれない。

全ての映画は、今まで人々が
なしとげてきた全ての芸術は、
人人の「生」と併走する列車であり
それは止まらない。

〔ページ変わり〕

見ることと作ることは
同じように難しいことだ。

私はオヅの映画を実際に
本当に見るときのむずかしさ
は、それが人間の真のドキュ
たりえているのだ。

それは日本的ディティールが
あるのだが、それは重要では
ない。それは人間が人間にして
いる労働であることが重要
なのだ。

ドキュというとき、われわれは
ついエスニシティというものを
考えてしまう。

〔ページ変わり〕

チリやアルゼンチン映画
見る時は、我々はそれが
「チリ映画」「アルゼンチン映画
だと見てしまう。

もし仕事のなかに楽しみが
なければ、われわれは
それが出来ない。

チリやアルゼ〔ンチン〕のドキュで
労働者たち〔が〕どのように描か
れているかはわからない。
ドキュにおいて大切なことは
まずそこで撮っている人が
働いてることを見ることだ。

ドキュとは常に自分が働いている
ことの考察になるのだ

〔ページ変わり〕

ミゾやオヅのようなアルチザン
的な作家では、主題より
彼らの労働がそこに描かれて
いることが重要なのだ。

私が『骨』を撮った時
そこで働いていた人人と共有
したのは、
私が映画を作ること〔を〕楽しんで
いることとと、
映画を知らない人々と共に
働くこと
貧しさという主題より、
そのような労働が
大切だった。

〔ページ変わり〕

ドキュやフィクのちがいが
問題になってくるのは、決っして
よいことではない。

ドキュとフィクの定義はむつかしい
『ヴァンダ〔の部屋〕』を撮ったあと
これはドキュかフィクかとの
問いがあったが、それは
描かれているのが本物か
偽物かということ〔を〕いって
いる。

私たちが映画を見て、個人的
な何かを快消〔解消〕したいのはふつうか
もしれないが、それが映画を
作るということにまでいたらなければ
ならない。

〔ページ変わり〕

バッハのソナタで自己投影で
きるか?→無理だ!
バッハが聞こえた時、
個人的な感情など吹き飛んで
しまう、もしくはバッハの音楽が
おしのける。

バッハはドキュ作家といえるかも
しれない。彼はその音楽の中に
感情的なものを入れないのだ。

映画は強い投影
スクリーン←プロジェクター
スクリーン→観客

〔ページ変わり〕

同じく恐怖にも言える。
何〔か〕恐がらせるものを描くとき、
平凡な作家は恐怖が
想像的に描かれる

欲望・投影・恐怖と
精神分析的な言葉をつかったが、
映画は心理学的なもので
あってはいけない。
そこから離れる時、
人々は困乱してしまう。

チャップリンがチャーリーという
キャラクターを描じて〔描いて/演じて〕いたころ、
彼が映画の中で初めて、
いままで言ってきたこと→欲望・投影・恐怖を演じた人物だ。

〔ページ変わり〕

特に、チャップリン
ピカソのように成功した
から取り上げる
私は貧しさをあつかうこと
で金持ちになった
」(チャップリン

彼は本当に金持になったが、
それは彼が欠ぼう〔欠乏〕を持って
いたから。
欠亡〔欠乏〕というの〔は〕食べることや
つまり貧しさであり、それを
描けば描いていくことで、
彼は金持ちになり
女性関係をも手に入れる。

〔ページ変わり〕

彼はそれだけをしたわけでは
ないが、このようなシネアスト
が、ドキュであれフィクであれ
あらゆるジャンルの中で、
最も偉大な作家になるの
です。

自分の映画に反対し、
自分の生活は映画とは反対
だった。

チャップリンを例に上げたの
は上記の2点がスキゾフレニック
に表れているからだ。
私とは他者である」(ランボー

〔ページ変わり〕

私にとってチャップ〔リン〕は「私とは他者
である
」を体現した作家、
・大衆のどれい〔奴隷〕であることと
・自分の欲するものを手に入れた。

人人の「生」に向かうこと、
と、人生の夢に向かうことが
映画の進むべき道である。

・『ボクサー〔チャップリンの拳闘〕』『〔チャップリンの〕失恋(トランプ)』(チャップリン

木や車やドアや動物を
本当にあなたは見たことが
あるのか?

〔ページ変わり〕

『チャップ〔リン〕の失恋』の中で
車が描かれているが、
われわれが今見て
何かゾッとしたものを
感じるだろう。
それは「何かうまくいかな
いこと」だ。

〔ページ変わり〕

・『チャップリンの失恋(THE TRUNP〔THE TRUMP〕)』
・『はくしゃく〔伯爵〕夫人』の一部

(不在によって不在を見せる。
 不在の連鎖)

まず「見る」ということから映画を
考え始めた。
技術的・歴史的側面は学べるが
感情的な側面はどうなのか?
それは危険なものでもある。
それを伝えられるか。
それをあなたは持っているか。

映画を学ぶ者は孤独だろう。
自分の中に「感情」を持つ、
または持たなければ、俳優の
演技指導など出来ないだろう。

〔ページ変わり〕

私自身、映画学校に入ったとき、
「反抗する気持ち」
そこの教師たちに"NO!"を言う
ために入った。
技術的なものを学ぼうとしたが、
彼らに「感情」は教えられない
だろうと思ったからだ。
だから、あなたたちも
私のことをあまり信用しない
で欲しい。
私はその「反抗する気持〔ち〕」が
映画を作る上での一つの層に
なっていった。

〔ページ変わり〕

私はメタファーを作う〔使う〕ことを嫌うが、
悪くないメタファーもある。
かつて、ここが銀行で
あったこと、ルビッチの『極楽特急
の銀行で小切手でなくラヴ・レター
を書いてしまう矛盾のように、興味
深い。

銀行銀行が映画学校になったように、
お金であったりetc何かに対して闘うことが
本質的
資金に対して闘争していく
こと、市場に組み込はれ〔組み込まれ〕
てはならない。

〔ページ変わり〕

チャップリンが「チャーリー」だった時代、
彼が銀行に入ると、すぐにつまみ
出されてしまう。

この例で言えば、映画とは「道」
であり、それは弱いものだが、
そこに住む人々と共に生きるもの
ということ〔を〕チャップリンは考えて
いたのではないか。

『失恋』でこじき〔乞食〕、浮浪者、つまり「道」
にいる男、彼の屋根は空だ、そこに
いつづけること〔を〕考えなければ、技術
的なことも決まらないし、そこにこそ
「感情」がなければならないだろう。

チャップリンは「感情」を豊かに持って
いたから技術的なことができた。

〔ページ変わり〕

チャップリン
(・モンタージュやCポジ〔キャメラ・ポジション〕
(・「感情」それは一種、倫理的
(  な態度

『失恋』は初期の一本だが、
彼はその後の全てをここで
展開している。
やや離れたキャメラ・ポジション(中景)
から全体を映す。

『伯爵夫人』
彼の最後にまでいたって、
市場に対抗していたので。
部屋・ドアだけの中で
人間の「感情」を描く。
このシーンでやられていることは
何度も見たものだが、そこに
ある「活力=死への抗い」
を感じる。

〔ページ変わり〕

ここの俳優たちは白痴的な
動きをしている。オヅ〔や〕フォードたちもまた
最後にはそのような身振りを
させる。それは弱いものである
が、それこそが「道」なのだ。

映画を撮るには「老いる」ことが
必要なのでは?
20歳であり40歳であること。
ショットに人生を込めること。

人生の最後に至る線
老人とは彼自身でしかない人
ドゥルーズが言った。
"ただ年老いているだけの人"
なにかしようとかいうのでなく、
少し老いること、その人自身で
〔しか〕ないことになるために。

〔ページ変わり〕

ある映画作家、あなた方は
『失恋』と『伯爵夫人』
一方で社会に反抗する=若さ
一方で、年老いる=苦〔し〕さ、つらさ
社会をほうっておくこと。(自分の背後に)

『〔伯爵〕夫人』の中には、大きな社会の
中での、わずかなもの(部屋・
ドア)しか描かれていない。

私は大きな社会の中でしか
映画を見たり作ったりする
ことが出きない。

社会がどのような欲求に
動かされているのか。
オヅやフォードもこう考えて
いただろうと私は思うのだが、

〔ページ変わり〕

私たちの資本主義活動は
公正でないと。それが無い。
公正(社会の中での公正
   (「正義(ジャスティス)」

ちゅうしょう〔抽象〕的に思われるがそうではない。
あなたたちは映画を作っている
だけではなく、その時「感情」の
やり取り〔・〕コミュニケーションを
しているか? ハリウッドでは
「感情」が取り引きされている。
私はそれイマージュがそれ以外の
何でもない真の価値があると
思う。

〔ページ変わり〕

イマージュが真の価値と
して描写あつかっている
映画というのはあまりない。
それに出会ったとしたら、あなた
たちの様々なもの〔を〕変革する
ことになるだろう。

映画作家のしなければならない
ことは、一つのショットか〔ショットが〕、
あたかもいままさに生まれたか
のようなショットを撮ること。
オリジナリティとは違う。
チャップリンなどの作家
たちを見ることによって、
いままでこの世界になかった
ようなイマージュを作るのだ。

〔ページ変わり〕

私が挙げてきた偉大な作家
は、ひかえ目な人人であった。
抜け目のない人とは誰かに
対して
抜け目のない人だからだ。

「誰かに対して」→市場

誰かに対して何かする
誰かが私に何かする
ことに対する恐怖と愛を
持っている。
それは空にも地獄にもない。
『失恋』で探求されていた幸福
幸福とは「うまくいくもの」である。

〔ページ変わり〕

何かを「探究する」という
言葉を科学的に使っている
悪について「探究」している。
それは物質的なもの
を通して(使って)見せる
ことによって、地獄的ま
たは天国的なものにも
なる。
マテリアリスムでありながら
ミステリアリスムにもなりうる
のだ。

〔ページ変わり〕

演出の授業時授業中、〔ドライヤーの〕『奇跡』
を見たいた〔見ていた〕時、ある学生が笑った。
上映後、年老いた教師は
言った。「あなたたちがもし、
『奇跡』の中の「神」という
言葉を笑ったのだとしたら、
あなたたちに映画を撮る
資格はない」

人々のやりとりの中に「神」と
「悪魔」を見ること。
それは天国にいるのでも
地獄にいるのでもない。

〔ページ変わり〕

目の前に存在するすべての物を
あつかうこと、それは重要な
ことだ。それは「悪」というこ
と〔を〕あつかうことだ。チャップリン
のコメディーであれ。

ブレッソンの『ラルジャン』と
ターナーの『ナイト・オブ・ザ・デーモン』
を見てもらおう。
そして、考えてみてくれたまえ。
二つのまったく違ったシステム
で働いている作家が、
まったく同じやり方で、
何が良いことで、何が「悪」なの
かをあつかっている。



メモ帳2冊目

ラルジャン』『ナイト・オヴ・ザ・デーモン』
というまったく違うシステム・スタイルを持つ
2人〔の〕作家の共有するものは何か。

何かを通じて、何かを考えさせる
ことが映画。

2本で共通するのは「呪われた紙」
(『ラルジャン』では紙幣)
(『デーモン』では何かの書かれた紙)
それによって、何かを動かすための
もの。「マクガフィン」と言ってもいい。

ブレッソン芸術家で孤独であったかも
しれないが、そこには自由が
あったと言えるかもしれない。
ターナーは産業の中の労働者
常に何かきょうきゅう〔供給〕しつづけなけれ
ばならず、自由は制限されていた
だろう。

〔ページ変わり〕

ブレッソンにとってメタファー、マク
ガフィン、トリックを「何か」
を言うために必要とはしていな
かった。ブレッソンはただ音と
イマージュだけを作るだけで
充分だった。
彼はジャンルものを撮って「何か」
を言う必要もなかったろう。
そこにあるコードを作って〔使って〕「何か」
を言うことも。

ブレッソンもそうだが、ターナー
尊敬するのは、様々なジャンル
ものを通して、同じこと、
「悪」がなんであるかを描いた
からである。彼の方法というの
は美しく、今でも有効であると
思う。

〔ページ変わり〕

ブレッソンは心理学など
必要なく、イマージュと音だけ
が必要だった。
心理学が出てくるのは、
私たちがそれを見たあと
なのだ。

一方、ターナーも同様に心理学
を必要としなかったが、
ブレッソンと違う不自由な環境
下で、同じ「悪」を描いていた。
このシーンは精神分析的なもの
だと思う。精神分析とは何か、
ということをいいかえれは〔ば〕、「悪」を
何〔か〕と交換するのか〔交換するのだ〕といえる。
精神分析では、「何かうまくいか
ないこと=悪」を誰か他人に
与えることで、安心感を
得ているのだ。

〔ページ変わり〕

ターナーが美しく知的だと
思う〔の〕は、精神分析的な
「悪」を誰かにわたすということを
こばむからだ。

2本の映画は「悪」がつねに順環〔循環〕
としてしていて、財布という何かを
はさむ物があつかわれている。

『デーモン』のコンパートメントの中を
一つの社会と見ることができる。
心理学者とそれを信じる者と
信じない者がいる。それがターナー
の社会だ。
「何かひどい事」〔が起こるの〕を知っている人と知らない人
知っている人間が、知らない人間が
出ていくのをこばんでい
るシーンなのだ。

〔ページ変わり〕

なぜ、ターナーは「死のカクテル」とも
いえように、これらをすべてコンパー
トメントに集めたか。ブレッソン
そうではなかった。

「この不可視なもの=悪」を描くため
に可視的なものを使うのが、
映画を作ることだ。

私たちはふだん「悪」についての
イマージュを持たない。
ブレッソンのではそれは「金銭」
や「チェック」というイマージュ、
ターナーの場合、「呪いの紙」で
あり「悪魔」というイマージュ
だが、それが構造を
形づくる

〔ページ変わり〕

一方、恐怖「悪」が死に至り、それ
は財布やポケットにあり、
もう一方では、「神」(「金、金よ、おお神よ!」『ラルジャン』)を財布やポケット
に入れている。

ターナーは「悪」を通じて「神」を
描こうとし、ブレッソンは「神」に
ひかれていた。

どちらも接触が回避される。
ブレッソン接触させないが、
ターナーははそれをこばませる。

どちらも、「悪」や「神」が社会
にあり、資本主義社会にある
といっている

〔ページ変わり〕

ブレッソンにおいて「神」がイマージュとなると
「金銭」となる
ターナーは「悪」にひかれて
いるが、それらは同じ社会
の中でおこなわれている。

ちがうやり方で同じ表現ができる
といったのは、ハリウッドの

ブレッソンにはただ事実だけ。

このようにして、2人の作家を
愛することが出来ること、
かくすこと、   見せるとき遅延させること、
加速すること
とい〔う〕メチエを共有しているからだ。
映画は運動だからだ。

〔ページ変わり〕

2本を見て印象に残るのは
その運動だ。

それはきんちょう〔緊張〕といってもいい。
ブレッソンでは視線のやりとりに
よって表している。それをイメージや
音によって持続させ、次のイマージュや
音としょう突〔衝突〕させ、ターナーは全てを
一緒にやっている。

ターナーはきんちょう〔緊張〕感をモンタージュ
で、くっついたりはなれたりして
いることで表し、
また「紙」と列車の運き〔動き〕が逆で
あることでも表され、それは美しい。
2本
映画にとって大事なことは次に
次になにが起〔こ〕るのか、について
考えさせること。それはあたかも
「生」のようであり、サスペンスといえよう。

〔ページ変わり〕

こうしたこと〔を〕考えると恐いが、
映画作家はみな映画を撮った
あとどうなるか恐れている。
またそういうことが「生」という
ものだ。

恐怖とともに生活してい〔る〕映画作家
いう人々にとって、たとえうまくいって
いる時でも、その後に何が起こる
かは決して決してわからないのだ。

映画をどうやって作るということを
話したくないので、「悪」「神」「恐怖」
ということを話した。

映画にとっていえることは「この後には
何が起〔こ〕るかわからない」ということだ
けだ。

〔ページ変わり〕

映画を撮る時、次に何が
起こるかわからないというのは
恐いのだが、この地球で
映画を撮るということは、
その恐怖に抗うために
することなのだ。

「抗う」という言葉を使ったが、
それは、映画の中のイメージ
がイメージに対してレジスタンス
するというようなことである。

暴力には、(治源〔始源〕の暴力
       (抵抗の暴力
がある。

〔ページ変わり〕

ストローブ=ユイレ
編集室でのキンチョウ〔緊張〕感、または
恐怖が感じる。
レジスタンスに満ちた映画だ、
「ここでカットしよう」「いや、……」
というように。

映画作家が機材に
対する抵抗。

『ほほえみ』や『ヴァンダ』は
パナソニック製の小さい
VIDEOのカメラでとった。
それてなければいやだったのだ。

小さなcameraと共に抗いた
かったのは、一つのラベル
(安さ、感光素子、高感度レンズ)
もあるが、

〔ページ変わり〕

不可視な特徴として、このカメラ
とともに立ち上がりなさい、一緒に
レジスタンスできると思ったのだ。

決してしてはいけないのは
(小さいカメラであっても)
人の望んでいることをやってはいけない。

こうしたカメラは有効で安いが、
ある種の安易さに抵抗しなけれ
ばならない。

具体的なことは言えない。
なぜなら困難は撮影や
モンタージュの最中にしか
現れないからだ。

〔ページ変わり〕

『ほほえみ』は仕事についての仕事
だった。そこで具体的なものを、
見せられたかもしれないが、ダメだった
機カイ〔機械〕や技術者や人々と共にいる
時にしか現れないのです。

ここで、「あなたの映画のココが
ダメだ」と言うとき、言った人は他人の
ことを見ていない。いいかえ
れば知らない。

『ほほえみ』
私について、そして観客
ついての映画なのだ。
仕事についての映画
ミステリアスなものを見せようと
したが大変だった。
それは「生」のようなもので
あるから。

〔ページ変わり〕

映画を作る時、「生」をまさに
投影するように苦労というか
魂が必要で、
ブレッソンの中では人々の生は
速かったり遅かったりします。
それを見せるのが映画です。

映画とは「生」とともにある要素を
構成するもの。
それは「生」に似ているが
「生」とともにある要素が重要なのだ。

映画作家はキンチュウ〔緊張〕と共に生きな
ければならない。全ての危機を見る
ために集中しなければならない。
あなたのショットに火がなければ
 それは何にも  しない
」(ストローブ)

〔ページ変わり〕

この「火」はルビッチのラヴ・レター
と同じものである。

ルビッチのラブ・レターを見た人は少
ないと思うが、実際に銀行で
ラヴ・レターを書いた人は、もっと少な
いでしょう。

私の仕事はあなた方と

私の銀行はこの銀行
より大きいと思うが、共通して
考えなければならないの
抵抗すること、銀行でラヴ・レターを
書きつづけることだ。

〔ページ変わり〕

最後に、セザンヌという映画作家に
ついての映画です。
それは何かの仕事について
の映画である。
彼は雨や風などに
抗なって〔抗って〕死んだ人です。
セザンヌ



こんなことしてたら病院に行き損ねた。薬は今日で切れてしまうのに……。
おまけになんだか咽喉も痛いし。
どんより。