事実との齟齬で明かされる記憶の恐ろしさ

ゼミの日。いまゼミでは蓮實重彦『映画の神話学』の読み直しをしている。まだ第一章「映画・この不在なるもの輝き」をやっているのだが、今日はエムくん担当の第二節「風景の不在」である。後半は「視線の否認劇」として「西部劇」の実例として挙げられて、描写されている作品のなかから、フォードとウォルシュの諸作(『駅馬車』『アパッチ砦』『リオ・グランデの砦』『捜索者』『壮烈第七騎兵隊』『死の谷』)の、著書内で言及されているシーンが、実際のところどのようであるか、抜粋してきたDVDで見てみた。断片化されてはいるが、併置して見てみると、やっぱり面白い。フォード、ウォルシュをひっつかまえていまさら「面白い」なんて言うのは、バカじゃないのか? と言われるだろうが、こうしてあえて愚直にバカになってみてみることも、悪くないなと思った。いや、「蓮實以後」の映画をめぐる言説がヘゲモニーを握っていた時期をとうに過ぎたいまこそ、あえてデビュー当時の蓮實重彦がいかなることを言っていたのか、それはいまだ有効か、またはそこからの可能性を汲み取ることができるのか。なんて高尚ぶったことを考えつつも、文章として描写されてるものと比較して見てみることは、単純に面白い。そしてなおかつ恐ろしいのは、その「描写」と「映像」が食い違っている箇所である。つまりそこには狂気じみた記憶(と記憶違い)が存在し、つまり蓮實重彦はその記憶のみによって――なんらかのリファレンスによらず――「描写」していたことが、爆笑とともに私たちに知らしめられるのだ。