5時過ぎに寝て、11時過ぎに起きる。時間帯はともかくとして、充分な睡眠時間といえる。ただ気がかりなのは、眠りに入る前のうなじ辺りのかすかな疼痛と、起きぬけの一服の際にわずかにめまいがしたことだけだ。



きのうそう書いたように、移動中の私のバッグには『神聖喜劇』が入っている。きょうもそれに変わりはないが、「群像」二月号も入っているのである。多和田葉子の「旅をする裸の眼」を読もうと図書館から借りたのだが、手付かずのままに返却期限日(先月29日)もとうに越してしまったものだ。帰りに閉館後の返却ポストでこっそり返そうという、小心な決意のもとに持ち歩いているのだ。しかしいまから多和田長篇を読み始めても間に合わない(何に?)ので、かといってそのまま返すのもなんだか損な気もして、青山真治の「Radio Hawaii」を読んだ。

(返却していま手元にないので引用は不正確の嫌いがあります。御注意を)
漫才コンビ」とも自称される「相方」と「私」がハワイに着くと、「私」は日本から来た「私」と「ハワイの私」のズレに気づかされる。それはすぐに、日付変更線を超えてある日の夜に日本を発って、その日の朝(つまり時刻的には逆行して)ハワイに着いたからと、その時差を理由・説明として述べられ、つい納得してしまいそうになるが、ならばニュー・ヨークであれアムステルダムであれ同様なことがありえるわけだろうと思われるが、しかしなぜそれがハワイで起こるのかといえば、そこがハワイだからだ。
日本語の「ハワイ」ではなく、太平洋に浮かぶアメリカの飛び地である「Hawaii」では「i」が二つになり並び立つからである。
以下、観光小説の体を様しながらも「私」は山下達郎大瀧詠一ヴェンチャーズとビーチボーイズのズレを引き出しながら、やがてブライアン・ウィルソンの名を見出す。父または従兄弟、ジョン・レノンポール・マッカートニーフィル・スペクターヴァン・ダイク・パークスなどの二つのものと、ブライアンとのズレについて語られていくうち、唐突に登場するあの人(強調ママ)がこの短篇小説において、ブライアンと並び立つ名である。
あの人の「《路地》」とハワイ。そして「どこでもいい」という言葉。しかしそれはズレを融解・無化するマジック・ワードではなく、ニュー・ヨークでもアムステルダムでも、並び立つ「i」のズレを孕む「Hawaii」に成り得る可能性を持つということだ。
日の出時に翳る隣島を見に行こうとドライヴした「相方」と「私」が、実はそれが隣島ではなく島の突端にある二つの小山だと判明するズレのエピソードを挟み、「私」はホテルのサーヴィスで海を背景にポーズをとって写真を撮る新婚カップルを赦し、ハワイまで来て麻雀をする奴らを赦さないという。
そして空港でいままでズレていた「私」と「ハワイの私」は乖離し、「私」は飛行機に乗って飛び立ち、「ハワイの私」は赦さない麻雀の奴らに銃弾を跡形もなくなるまで撃ち込んで、この短篇は終わる。あくまで「Hawaii」では「i」が並び立つのであり、「ハワイ(Hawai)」のように「i」のズレが融合することはない。

これは『アカルイミライ』で「私は君たち全部を赦す」と言わせ、『ドッペルゲンガー』で本体と分身を融合させた、黒沢清に対する返答なのではと思ったのは、深読みというか、下司の勘ぐりというヤツなのだろうか。
どっとはらい