おぼつかない

4時すぎに寝、9時すぎに便意で目覚める。いま飲んでいる薬(アモキサン)の副作用で便秘ぎみになるため、便秘薬(アローゼン)を毎夜服用しているからなのだが、これまではわりと遅めに、ゆるやかに効いていたので、こんなことで目覚めるのは初めてだ。そのための薬を飲んでいるのだから、なんら不思議はないのだが。
私は起きぬけに煙草を一服する習慣があるので、便意を感じながら吸っていると、ちょいとそれどころじゃないわよ、という切迫した状態になり、立ち上がると足元がふらつく。この間、病院で急激に起き上がるのは危ないから、と言われたばかりだったが、ことは急を要しているので仕方あるまい。両手を壁づたいにトイレに向かう。
なかで何をしたかは想像におまかせするとして、ひとつだけ言い添えると、貧血を起こし腹痛を包括する概念としての苦痛を感じた。これは煙草によるものも加えての症状と思われる。さらにトイレのなかで誰に訴えることもできないのが、苦痛をいや増す。それでありながら、排泄に関わることなので、人前ではばかりなくこの苦痛を話題にできないのが、また苦痛である。


もちろん腹具合が悪いときに、せっかく用意していてくれていたにしても食物繊維がたっぷりのふかし芋など手をつけるわけにはいかないので、コーヒーとルビーのグレイプ・フルーツ(これだって繊維はあるが喫煙者としてはビタミンCの摂取を怠るわけにはいかない健康増進法)をつまみながら『偉大なるマッギンティ』を見る。
昨日と順番がテレコになったが、こちら監督デビュー作で同じく40年の作。ホーボーが州知事に成り上がっていくのを回想で語る形式といい、『偉大なるアンバーソン家の人々』を思わせるタイトルといい、ウェルズからの影響なのかなと「映画大全集・増補改訂版」というガイド・ブックを開くと、『マッギンティ』は"GREAT"『アンバーソン』は"MAGNIFICENT"だった。さらにもひとつ『市民ケーン』は41年の作。ということは影響関係は逆なのか? もしかして映画史的常識ってやつですか? そういやそんなこと読むか聞くかしたような気がしてくるから怖い。頭具合までどうかしてきたのか?
なんていって実は単なる偶然でした、とか?


ここのところ電車で移動中には大西巨人の『神聖喜劇』を読んでいるのだが、揺れの心地よさに眠ってしまったり、本を買った帰りなどはそちらを開いてしまったり、ゼミのために必要な資料を読まねばならなかったり、そもそも外出自体がまれであったりするので、なかなか進まない。
只今、光文社文庫版の第二巻p.146(第三部・第二・十一月の夜の媾曳・七)で、東堂太郎が剃毛について思いを巡らしている最中だ。
先はまだまだ長いが、急がず「超スローモー」((c)大西巨人)で楽しんでいきたい。本当に楽しいことなんてそうそうないのだし、せっかくの楽しみを忙しなく消費してしまうのはもったいない、と思ってしまうのは貧乏性なのだろうか。


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